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いざ!アウトサイダーアートで行っちゃうよ!今年のNHKギャラリー!!!(タイトル長っ) [絵画]

NHK[TV]のギャラリーさんから今年の展示のPR文を提出するようにとの文書が届きました。

[ペン][あせあせ(飛び散る汗)]去年と同じく病名を出して、闘病を経て現在に至る。
と紹介するのが一番無難?なのかもしれませんが[たらーっ(汗)]
今年は[exclamation]ちょっと挑戦してみることにしました[exclamation×2]

以前この日記にも書きましたアール・ブリュット、アウトサイダー・アート[アート]として
賢治の絵を見ていただく第一歩にしたいと[足]
そー思って書くと
んーー硬い[パンチ]
読んでいて途中で嫌になる(笑)[もうやだ~(悲しい顔)]

賢治の具体的プロフィールの部分は
なんか・・・どーしても
音楽リサイタルのチラシの経歴っぽくなってしまって[ふらふら]
[ペン][あせあせ(飛び散る汗)]書けない私を許して[たらーっ(汗)][たらーっ(汗)][たらーっ(汗)]

そーして夜は更けて行くのだった[三日月]
[犬]わぉぉーーーん[たらーっ(汗)](私の遠吠え)


こんなPR文章?   書いてみました

     ☆゚・*:.。. .。.:*・゜☆゚・*:.。. .。.:*・゜☆゚・*:.。. .。.:*・゜☆

海外でアール・ブリュット、アウトサイダー・アートと呼ばれて注目されている芸術的表現があります。
これは正規の美術教育を受けていない人の自発的な表現であり、また何らかの障害(病気)による
観念から、はじめから作者は他者に見られることを前提にせず、時代や社会にもとらわれず、ただ
内なる衝動に基づいて創作しているもの、と定義されています。
障害を持った人の芸術作品に触れるとき、わたしたちは、障害を乗り越えながら作った作品という
心情でとらえることが多くあります。
確かにそれは、その作品を形成するひとつの現実でもあります。
しかし今、あえてそこから離れてこの芸術表現の本質を見ようとしたとき、
わたしたちはいったい何を感じられるのでしょうか?

Kenji(渡邊賢治)18歳 札幌市在住
10歳の頃から絵を描きはじめる
支援者によって主に札幌市で個展を開くほか、イギリスのロンドンAir Franceロンドン支社、
道内のオフィス、レストラン、飲食店に作品を置き、展示活動の幅を広げている。
昨年につづき今年のNHKギャラリー展示では原点の水彩画である5年前の作品から新作まで、
約30点を展示する。

[カチンコ][カチンコ][カチンコ][カチンコ][カチンコ][カチンコ][カチンコ]

。。。。。。。さて  いかがなものか[ゴルフ][ー(長音記号1)][位置情報]
[ぴかぴか(新しい)][ぴかぴか(新しい)] 「わけわかりませんので具体的に!」と返送[右斜め下][メール]されませんように


そーして またまた夜は更けて行くのだった[三日月]
[犬]わぉぉーーーん[たらーっ(汗)](私の遠泣き)[たらーっ(汗)]


コメント(10) 

コメント 10

海老田俊則

 う〜ん、絵のPRっつーのも辛いところですねぇ。僕個人としては、アウトサイダーアートという名で定義されている内容こそが絵画の<真ん中>を示すものだと考えます。変化という<生>の必然の中、絵画一つで背負っていた記録性やドラマ性等が、写真や映画等に分散されたおかげで、今現在絵画は、よりその魅力を追い掛けられる状況にあると確信します。それに対して<正規の美術教育>は邪魔になるだけとは言い切れませんが、本道がありアウトサイダーアートがあり、という言い回しは今後はこの地球上から蒸発する日が来ます。 けれどまだ、少なくとも日本では、こういう考えは一般的とは言えないし、そもそも絵画自体が、どう付き合ってよいか、または向かい合ってよいか解らん代物って感じが主流です。う〜んそんな中、絵のPRっつーのも辛いところですねぇ、ってこれじゃー何も語っていないに等しいわい。 無駄に長い、そしてオチの無い文章での乱入をお許し下さい。 ではまた
 
 
by 海老田俊則 (2008-05-02 18:00) 

Kenji

あ☆本当だ(*・・*)
そうですね、はじめから他者に見られることを前提に描く絵画なんて不自然(そっくりな肖像画を描くなら別ですが)、それに内なる衝動に基づかない創作なんて、、、ありえない。
衝動とまでは行かなくとも湧き上がる何かがあるから創作するんですよね。

そもそも私は『絵』とは何ぞや?と考えたことが無い事に・・・恥ずかしながら今気付かされたワケで<(_ _)> 海老田さんコメントをありがとうございます!(*^^*)
それと『障害者の描いた絵」という目から離れたいと思うあまり
逆になんかその枠に入ろうとしているような・・・・

ううう~む
それぞれの目と心で、何かを感じるか感じないかも自由な絵画に
PRは難しいです(; ̄▽ ̄)

あとはNHKお昼のニュースの中のギャラリー情報に、また優香に出てもらって、ひとこと語ってもらおっと  ε=ε=┏(母)逃げる
by Kenji (2008-05-02 20:13) 

海老田俊則

 偉そうな話しをしてしまい真に恐縮であります。まったく僕の場合もその辺が頭の痛い所でありまして、ただ無愛想なのも本意では無いし、喋れば喋ったで何か上滑りしている様な................うーん。 まあコメントはコメントとして割きりエンターテイメントしちゃう様な度量が欲しいところですわい。 ちなみに誰かに出てもらって、一言語ってもらうっつーのは、これは名案だと思ってしまいました、アハハ。 ここで一句 <心から 逃げる投げるも 人の道>  おそまつさまでした。 

by 海老田俊則 (2008-05-02 22:39) 

kei

それと『障害者の描いた絵」という目から離れたいと思うあまり
逆になんかその枠に入ろうとしているような・・・・

そうなんだよね。
でも、現実はそのとおりで。
そこがつらいところではあるが、逆に目をつぶることが正とは限らないと。。
目をつぶってはいないが、現実として、賢治が健常者なら。
つまり、普通の男の子だったら、日の目を見ないことも一理でしょ。

売れる売れない、感じる感じない。

母は代弁者であり、彼じゃない。

なんていうかな、表現者としての賢治がどう考えているか。

それを、感じられる人が、感じるだけで、
つまり、文章など、関係ないのでは。。。。

そう、先入観とかそういうもの。障害者の描いた絵。
それだけで持つ、先入観は。。。母としてつらいのだろうけれど、
(そんなこと無いか。。。)

と言う感じでね。。いいのじゃない?
この文章で。

賢治は、母の考えなど気にしないで描いていること。
それが、人の中にはいっていくこと。

まあ、肩肘張っていないだろうけれど。。。

がんばって、難解な言葉を投げかけるより。。。
母の想い。母の感じる想いの文章でもいいかも。。。

どのクラスの人たちが見に来るか。。。
それを考えたとき。。。

海外でアール・ブリュット、アウトサイダー・アートと呼ばれて注目されている芸術的表現

と言う言葉に。。。????の人がいるかも。。。

難しい?表現を使わず。。。
母の表現で。。。

と。。勝手に考える。

まあ、解かってもらえるひとだけでいい。
そういう気持ちじゃないのは解かるけれど。。。

障害者と言う言葉を使わないで、どれだけ評価があるか。。。などと
考えているのかな。。。
違うよね。。。

「それぞれの目と心で、何かを感じるか感じないかも自由な絵画に
PRは難しいです」

あはは。。。写真もそうだ。。。

とりあえず、僕の場合は撮り続ける。
賢治は、書き続ける。

母は。。。母の表現で、賢治をPRする。

自分の言葉じゃないと、伝わらないこと。。。あるとおもうよ。


と。。。結局、僕も結論もひったくれもない。。。書きなぐりの
文章でした。。。ごめん
by kei (2008-05-03 00:35) 

海老田俊則

 賢治君のかけがえのない代弁者たる美津子さんの言葉で彼を表現するということにつきます。 アウトサイダーアート等既存の言葉は一見それらしく、または解りやすくなるのと同時に、賢治君の絵を小さくパッケージングしてしまいます。 <美津子さんの言葉による表現>、仮にそこに問題が出てきたら次ぎの<糧>にするのみ、それでガタツク程賢治君及び彼の絵はヤワじゃーないと僕は信じますよ。 まだまだタフな旅の途中、これはまさに<賢治と美津子の冒険物語>っすね。長いスパンの中から必ず<美津子さんの言葉による表現>が立ち上がる事を僕は信じております。 昨日今日と僕の言葉でいたづらに迷わせてしまって申し訳ありません。  ではまた    海老田俊則
by 海老田俊則 (2008-05-03 07:12) 

らむじー

>しかし今、あえてそこから離れてこの芸術表現の本質を見ようとしたとき、
わたしたちはいったい何を感じられるのでしょうか?

賢母の言いたい事はここね。
少ない文字数で自分の想いを伝えるのは難しい。

私が始めて賢ちゃんの絵と出会った時、何の先入観も無く、そのお店に絵が飾ってある事も知らなく、店内に入ろうと通り過ぎようとした時、絵の方が私の中に飛び込んで来た。
絵は好きでいろんな美術館に足を運んだりしていたけど、10代の頃、始めて「三岸好太郎美術館」に訪れた時以来の衝撃を覚えたよ。

私的には絵や芸術作品見るときに何の説明も要らない。
逆に説明がわずらわしく思う時もある。
何も足さない何も引かないありのままがいいかな。

でも感動の次に一体どんな人が描いたのかと言う知りたい欲求も生まれてくる。
賢ちゃんのプロフィールを見つけて、以前新聞で読んだ事のある少年だと知って、これがそうなのかとまた感動したよ。
だからPR文章?も必要なんだよね。
それに沢山の人にギャラリーに足を運んでもらうためににも。
出来れば絵を見た後に読んでもらいたいと思うのは私だけ?(笑)

「アール・ブリュット、アウトサイダー・アート」として賢ちゃんの絵を括らなくても良い様な気がする。
条件的には全て当てはまるけれど、ネットで見たそれらの絵と賢ちゃんの絵、根本的に何か違うような・・・・
「ピカソ」と「モネ」の絵が違うようにそう言う次元のものなんでしょうけど・・

賢ちゃんの絵は、彼の人生であり、言葉であり、愛であり、希望であり、彼が手にする事の出来るあらゆる自由が詰まっている異次元の空間なんだと
いつも思うのでした・・・・


私の勝手な意見でしたm(__)m

by らむじー (2008-05-03 08:02) 

Kenji

おーーー!\(o^∇^o)/ みんなコメントありがとう!!!感謝☆感謝☆

>「障害者の描いた絵」という目から離れたいと思うあまり

というのは、まずひとつに
私にとって障害者が全然特別な存在じゃないことから来ているんです。
私は日々賢治と接しながら「障害者の賢ちゃん」なんて思うことが無い(笑)
「障害者、、だ、ね、確かに賢治は。。。で、だから何?」って感覚なのだけど
この感覚を世の中のみんなにわかっておくれ!と言ってもそりゃ無理だろうから、その辺を客観的に推測して、
それでなんか煮詰まっちゃった。
そしてもうひとつは、後の方に書きますね。

みんなの言うとおり
賢治及び彼の絵はヤワじゃーない!と私も信じて、私の言葉で
そしてホント!らむちゃんの言うとーり
>感動の次に一体どんな人が描いたのかと言う知りたい欲求
これはそうだよね、私もそう思う!!!
「僕は渡邊賢治です」と言うように、あるがままの賢治を語ればそれで良いのだな~と思った。

らむちゃんが賢治の絵と出会ったときの話し、嬉しかった。ありがとう!!
海老田さんも、初めて絵に出会った時、いえ、それからずっと今も賢治の絵を見るたび感想を熱く語ってくださって、その時に言葉の背後に全く『障害者云々』のカケラも無く、ただただ賢治の絵を感じてくださっているのだな、と思っていました。

keiへ
 賢治の絵のはじまりは海老田さんと同じく、絵を描くある女性がたまたまウチに来て、作者を全く知らない状態で、
「この絵スゴイ!!」と一時間ほど喋りつづけて(笑)
そして次に来た時には外の世界へ連れ出してくれた。そーして始まったものなんです。
だからそれからは、賢治は息子だけど、親のヒイキメなんて感じちゃダメなんだ!!、と逆に思った。
実際私も賢治の絵がすごく好きで惹かれずにはいられない
そんな流れで来ているから、
>普通の男の子だったら、日の目を見ないことも一理でしょ
これは全く思っていないんだよ。
たとえ賢治の絵が誰からも評価されなくなろうと、個展に誰も来てくれなくなったとしても、
今のように賢治が絵を描くのを楽しみにしているなら、私は賢治の絵の大ファンだから賢治と一緒に楽しく描き続ける。それだけ(*^o^*)

ただ、商業的考えの人が支援に付いたときは、確かにこの言葉を何度も言われた。
でもその人は、私が夫のいない、ただの賢治の母になろうとした時、すぐに去って行ったから、
やっぱり賢治の絵を毎年毎年見に来てくれるたくさんのお客さんは、賢治に障害があることへの同情心?のようなもの、特別な背景?そんなものだけじゃなくて、『絵』から何かを感じてくれているのだと思う。
それで、最初に書いた>「障害者の描いた絵」という目から離れたいと思うあまり
これのもうひとつの理由が
そーいう過去にいた『障害者の文字が無ければ客は見に来ない』と言えてしまうような人の目から離れたい
これは単に私の弱さ。気にしなければ良いだけで、賢治の絵とは基本的に何の関係もない・・・反省((-_-。)

命が危うかった時 「生かしてもらった」ことにどれだけ感謝したか、それをもう一度思い返してみようと思います。
そして絵に出会ったとき
「生かされた」使命がここにあると感じた思いは、やっぱり賢治の永遠のプロフィールなんだと、
色々迷いましたが、みんなのコメントで原点に戻ることが出来ました。
ありがとう(@⌒ー⌒@)
美津子




by Kenji (2008-05-03 19:45) 

優香

ご無沙汰しています☆今土曜日のお昼です。
日記は読んでいたのですがなかなかコメントする時間がなくて(-v-;)=3
前の日記の方で、私にコメントをくださっている方々へ、あたたかいお言葉を頂きまして、ありがとうございます。変わらず元気に、充実した日々を過ごしています☆

夏の個展、私も楽しみです。
最近、自分が何人(なにじん)だかわからなくなってきている感覚と(相当国籍不明です:笑)、賢治が障害児だったか何だったか忘れてしまっている(こちらはそもそもはじめから忘れっぱなしですが:笑笑)感覚が、似てるなって、思っていました。
日本人の黒髪のとてつもなく視力の悪い優香。小柄で笑顔がちょっとプーさんに似た障害者の賢治。些細なささいな、”事実””the way we are”

”障害者の賢治”の描く、今のこの絵たちは、”健常者の賢治”には描きえなかったものだと私は思っています。でも、今彼が描いている彼の絵たちが、そっくりそのまま”健常者”の彼によって描かれていたものだったなら、私はその方が、今よりもすごいことだったと思います。今よりももしかしたら評価されていたのかもしれないくらい、すごいことだったと思います。でも絵と近いところにいるのは、”健常者”の賢治ではなくて、”障害者”の賢治だった。だから今彼は描いているんですよね。

Keiちゃんも書いてたね、写真もそう。絵も、歌も、芸術の世界はみんなそうです。感じる人しか感じない、全員が全員分かち合えることは、ほぼ100%ありえないと思っています。”わかる人がいる”この事実だけで充十分です。
同情では人は足を運ばない。必ず目的地があるから、求めるものがあるから向かうんです。
例年新聞の切り抜きを持って「今朝記事を見つけて本物が見たくなった」と言って会場に訪れる何十名のお客さん。テレビのチャンネルを変えていたら、最後の一こまの住所と個展のタイトルのバックに映っている色に心を奪われた、描いているのは君なのかい?と受付に座っている私に言うお客さん笑(チャンネルを変えてて最後の一こま・二こましか見れなかったのですが・・・のお客さん、不思議とすごく多いです)

今年も楽しみです(^^)




by 優香 (2008-05-03 23:06) 

らむじー

>同情では人は足を運ばない。必ず目的地があるから、求めるものがあるから向かうんです。

その通りだと思う。
ある盲目のピアニストがいる。
人は彼の障害に同情してコンサートに行くんじゃない。
彼の演奏が素晴らしいからだ。
「目が見えないのにこんなに弾けるんだ」という付加は付くのかもしれないけれど、ある程度の上手な演奏では付かない、素晴らしい演奏にだけ付く事の出来る付加なのだと私は思う。

賢ちゃんの絵の全てを知ってるわけじゃないけれど、その色使いはとても印象に残る。
TVの1コマで見に来たという人の気持ちがわかる。
現に私もぐっと心を鷲掴みにされた。



「障害」という二文字が「個性」としてより多くの人たちに認識される事を私も願っています。
by らむじー (2008-05-04 00:12) 

Kenji

優香 お久しぶりだす(笑)
テスト勉強の週末をコメントありがとう。
お勉強頑張ってください。母もタイトル付けなどなど頑張ります。。。(;--)ガンバリタイ

はじめぇ~のはじめ、賢治の絵を見て「すごーーい!」と思ったケド
私たち、ふたりとも
「でもぉ こーいう絵なら私たちにだって描けるわ!」と張り切ってそれぞれに描き出して・・・・・あれ?・・・・あれ?あれれれ???
描けば描くほど・・賢治の絵から感じたよーな感動から遠くなる。
結局・・(-_-。)全然描けない
・・・あんなことを言った自分達が恥ずかしくなってクシャクシャと紙を丸めたあの日を思い出すね(笑)
>もし健常者が描いていたならすごい
>でも絵と近いところにいるのは『障害者』の賢治
この表現、私にはよーーくわかる。
賢治の絵から感じ伝わるものは(ダサい表現だけど) ピュアで、心に入ってくる時はビーンとストレートに えっ!?わぁぁ☆って感じで来るんだよね(表現できてないしっ・・(-_-)) 
もし、絵を描く時に「上手く描きたい 表現したい この思いを伝えたい・・・」そんな欲を100%捨てられる健常者の絵描きさんがいたら、本当にスゴイと思う。。。のを実感した絵描きではない母娘(笑)
でも、本当に、現に、賢治は日常からすべて いつも、そーいう欲のない澄んだ所にいるわけで
>絵と近いところにいる
それがとても自然な賢治の姿 
その賢治の自然な姿は世の中では『障害者』と称されている
んだよね。

>同情では人は足を運ばない。必ず目的地があるから、求めるものがあるから向かうんです。

出たね!優香の名言!!v(* ̄・ ̄)
そうだね。
らむちゃんも書いてくれてるとーり。

らむちゃんの書く盲目のピアニストと同じ人かどーかはわからないけれど
私もいつも思い出すテレビドキュメントがある。
当時彼は小学四年生。
「ドビッシーが一番好き!和音の感じが好きなの」と言いながら見事に『月の光』をやわらかく美しく弾いている彼は盲目だった。
その時、ちょうど優香も四年生。ハ長調にアレンジした『月の光』を弾いていて、優香も画面にクギ付け。
「原調だ・・・しかもすっごく上手い・・優香と同い年・・どーしてこんなに弾けるの?」

彼にとって目が見えないことは、
優れた聴覚と、イメージを広げられる感受性と、鍵盤を自分の体の一部かと思わせるほどの触覚?なめらかに指や手を動かせるセンス
そーんな数々を与えてくれたんだね
と話し合ったのを覚えている
彼は今ピアニストとして活躍している。

これは賢治と過ごせる幸運から育った感覚だと感謝しているものなのだけど
それこそらむちゃんが書いたように
『障害』を自然に『個性』と感じる私たちは
盲目の彼に障害を感じるより才能を感じた。
そして同じく賢治にもそれと似たものを感じている。

初めての個展から7年目
去年は一週間で約800人が見に来てくれて嬉しかった。
何より リピーター が多いことがとても嬉しかった
『同情』は
長くは続けられないんじゃないかな?
リピーターの方々は・・・
たとえもしかして最初は
同情的な感情だったにしても
今、どれくらい賢治の絵にそれを感じているのかな?
もう、『障害』が単なる 『付加』(らむちゃん 言葉もらいました) に変わっているんじゃないのかな?
と思ったりしています。

何はともあれ
わたしたちこそ賢治の絵に胸張って☆(⌒∇⌒)ノ自信を持って!!
と思うのでした。    美津子

by Kenji (2008-05-04 22:05) 

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